アッシュが泣いていた。

俺の記憶の中にある限り、アッシュが泣いていた場面は無い。彼のイメージといって一番に思い出すのが眉間に皺を寄せて睨む顔だからアッシュの泣き顔なんて想像もできなかった。

実際目の当たりにして、これほど綺麗に泣く人がいるのかと思った。

思わず手を伸ばして零れ落ちる涙を掬ったけれど、指の合間から再び零れ落ちてじっくり見ることができなかった。

そんなんだから、騒がしさがまだ残る応接間を飛び出していったアッシュを追えなかった。


アッシュが泣く?
どうして?

考えるのはそればかりで足が動かないんだ。







「ルーク」
言われてぼうっと突っ立っていたことに気づいた。
優しい声のある方へ振り向くと、いつの間に立ち上がったのかすぐ傍に母上がいた。

「行ってあげなさい」
どこにとは言わない。訊かない。分かっているから。
黙って頷いてアッシュの後を追った。


















朝日が差し込む廊下を抜けて中庭へと出たが、そこにもあの紅を見つけることは叶わなかった。廊下の扉も開け放したままだったし、こっちの方に来ていることは確かだけど、もうひとつの廊下への扉は閉じられたまま。
とすれば、残るはひとつしかない。

扉の前に立って入るべきか、入らざるべきか右往左往しながら散々迷って結局入ろうと決心するまでずいぶん時間がかかった。

よし!、と気合を入れて部屋の扉に手をかけたけど、もうこの部屋は俺のじゃないと思い直して、数えるほどしかしたことが無いノックをする。






乾いた木の音がやけに大きく響く。
けれど、当然と言うべきか、やはりと言うべきか、中から返事は無い。それでもここに彼がいることは間違いない。

「アッシュ…?」

入るぞ、と恐る恐る扉を開いて、あの紅が眼に入った瞬間、半分ほど開いていた扉は僅かな隙間を残して閉じられてしまった。

「来るな!」

それで大人しく引き下がる俺じゃないから精一杯力をこめて押し返す。
ミシミシ、と扉が悲鳴を上げるがそれを気にしてる場合じゃない。それでも、被験者とレプリカの差か、それとも単純に俺の力不足かジリジリと押され、最終的には鍵までかけられてしまった。






やっぱり入ろうとしたのは失敗だったかもしれない。

無理に入ろうとして扉を壊すわけにもいかないし、あれだけ強い口調で来るなと言われればなおさら入りにくい。

為す術もなく、締め出された扉を背にしてその場に座り込めば、向こうからも扉に力がかかっているのが分かった。
木の板一枚隔てて、彼も同じように座り込んでいる。いっそ背中合わせだったらいいのに。



そもそも俺はあんな顔してるアッシュになんて声を掛けたらいいんだろう。行かなきゃいけないって逸る気持ちばかりで考えてもいなかった。




でも、きっと言葉なんて要らないんだろう。

俺はただ待っていればいい。アッシュは強いから俺がいなくても大丈夫。すぐに自分で立ち直って俺にまた屑って言うだろう。それまで待っていればいい。
時間は…たくさんある。


向かいにある応接間の騒ぎはおさまりつつあるようだったけれど、こっちはまだかかりそうだ。

ただ…扉のせいで伝わらない温もりがもどかしかった。




扉一枚背中合わせ。
泣かしたのはルークじゃないですけど、ここは出番かと。
あれだけ普段強がっている人は泣いてる所は一番見られたくない。弱さが外面に出てるから。
泣きたいだけ泣けばいい。それだけ人は成長する。



泣きたいだけ泣けばいい 2007/03/29