きっかけはなんだったか…せいかくにはおぼえていない。
ただ、たまたまだった。そんなきがする。
いつもの通り、城から何冊か本を借り出して、邸に向かおうとしていた。そのうちの1冊を読みながら、天井が遥かに高い吹き抜けの入口に差し掛かったときだ。
「ルーク」
振り向けば金髪の髪を揺らしながら、こちらに走ってくる人影が見える。
「また、そんなに借り出して…根をつめすぎじゃありませんか。少し私の部屋で話しませんこと?」
彼女はそうやんわりと俺に休むようと勧めてきたが、大丈夫とだけ返して重厚な扉を押し開ける。
いつも通り、邸の前で警備に当たっている白光騎士の傍を通り過ぎて、玄関から廊下へ。後ろからラムダスがなにやら言っているけど気にしない。いつもの小言だから。
部屋に戻ろうとノブに手をかけると中から話し声が聞こえる。部屋の掃除をしているメイド達が話しているのだろうと当たりをつけ、邪魔をしないようにと踵を返して中庭で本を読もうと思った時だ。
「本物のルーク様はどうされたのかしら?」
「ルーク様が還ってくだされば、レプリカなんていらないのに…」
ドサドサと音がした。少し経ってから抱えていた本が落ちたのだと気づいた。
物音に気づいたのかドアが内側に開き、二人のメイドが出てくる。
「ルーク様、大丈夫ですか?」
一人は声をかけ、もう一人は床に散らばった本を拾い集めている。
聞きたくなかった。見たくなかった。
廊下を抜け、玄関を抜け、逃げるように邸を飛び出す。見張りの白光騎士が心配そうに声をかけるけれどそれさえも聞きたくなかった。
気づいた時には街を飛び出していた。何処へ向かっているのかも分からない。街道沿いにひたすら走る。足が動かなくなる。疲れてきたのだと知る。傍にあった木に寄りかかって、頭を整理する。
何かの聞き間違いだ。空耳だ。あれは俺の耳がおかしかっただけ。メイドたちはちゃんと本を拾ってくれていたじゃないか。俺をルークと呼んでくれたじゃないか。ああ、今度ベルケンドのシュウさんに見てもらわなきゃな。一度音素乖離しかけてた身だし、俺は第七音素だけで出来てるから不安定だし、きっとそのせいで耳がおかしかったんだ。
きっとそうだ。
「大丈夫かい?」
ほら、俺を心配してくれる人がいる。差し伸べられた手を大丈夫です、とだけ答えて掴んで立ち上がる。旅人にお礼を言って別れ、バチカルへ来た道を戻る。無我夢中で走ったせいか足取りは重く、ずいぶんと長く感じた。
「ルーク!」
邸へ戻ると母上が声をかけてきた。父上の姿が見えない所を見ると幸いにも留守らしい。
「何処へ行っていたのです?急に邸を出て行ったというから心配したのですよ」
「すみません…母上…」
「また『ルーク』がいなくなってしまうのかと思いました。これから出掛ける時は必ず私に声を掛けていって下さいね」
俺は顔を伏せて母上の言葉に頷く事しか出来なかった。
部屋に戻ると城から借りてきた本が綺麗に机に積み重ねられていた。あれだけ読む気で借りていた本だったけど、今は眼にも入れたくなかった。
次の日はいつも通りだった。
俺は昨日借りてきたキムラスカに関する本を読みながら一日部屋で過ごしていた。
夕方に帰ってきた父上は母上から昨日のことを聞いたらしく、夕食後応接間に呼び出された。
「どうしてあんなことをした」
二人しかいない空間では父上の声は良く響いた。
「全く…シュザンヌが倒れそうだったとラムダスから聞いたぞ。それに護衛もつけず、剣も持たずに出て行ったそうだな」
「…ちょっと外の空気を吸いたくなっただけです。何も心配は要りません。父上」
無理やりに笑みを作って心配をかけないように。多分笑えてない。頭を下げて反省しているようにする。
「もう少し、次期王位継承者としての自覚を持て。お前にもしものことがあったら国中が大騒ぎになるのだぞ。『ルーク』」
分かったな、と念を押すようにそれだけ言うと父上は寝室に繋がる廊下の扉を開け出て行った。
俺は、がらんとした応接間に一人取り残された。
翌日、公務としてバチカルの街を視察することになった。
母上にはしっかり出かけてくることを伝え、遠出するわけでもないので護衛はつけずに万が一の時に備えて剣だけは持って出た。
上層部の貴族の住居区から軍事施設、バチカル屈指の集合商店や港、あの旅でガイに紹介されたミヤギ道場まで視察する。軍事施設では瞬惨譜業砲なんてものを紹介されたが、今は必要ないだろうと軍費の削減を提案することを考える。もっと一般の人々にできることはないか…ヒントを得るために普段は行くことのない一般居住区へ向かう天空客車へ乗り込む。
歩き始めてすぐに止めればよかったと思った。複雑に入り組んだ居住区はさながら迷路のようで既に何処から来たのか分からなかった。ようは迷子だ。いい年して迷子だなんてと思うが、実際、俺は12歳かと思い直す。それでも恥ずかしい年頃だ。
天空客車の乗り場を探そうと、再び歩き出した時に話し声が聞こえてきた。ちょうどいい。あの人たちに聞こう。そう思って角を曲がって尋ねようと開いた口からは言葉が出てこない。
「さっきルーク様を見かけたが、やっぱりレプリカだな。迷ってた」
「馬鹿じゃないの。あ、劣化してるからしょうがないか」
笑い声と共に聞こえてきた言葉は耳に入れたくなかった。逃げたかった。あの声が届かない所まで。
「レプリカのルーク様だ…」
「偽者だ」
擦れ違う人が口々に噂する。聞きたくも無い。見たくも無い。
ぶつかった人が言う。
「気をつけろ!レプリカ風情が!」
何処をどう走ったのかは知らない。わからない。
上手く呼吸できない。肺に空気が入っていかない。苦しい。くるしい。
気づいたら天空客車の乗り場が見えた。
帰ってからは部屋に籠もる。鍵をかけてカーテンも閉める。夕食もいらないと断った。母上が心配そうに声をかけてきたが、ドア越しに平気です、と答えた。ため息と共に気配は去っていった。
何もいらなかった。
シーツを引き剥がして、頭からかぶって脇にあった枕を抱えて泣いた。
どれだけ泣いたか分からない。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。
部屋に閉じこもって姿を見せない俺に聞こえてきたのは、メイドの話し声と白光騎士の話し声。中庭を通るたびに噂していく。
どんなに手で塞いでも聞こえてくる。ああ、いっそこの耳をそぎ落としてしまったら聞こえなくなるだろうか。
ナタリアが公務の間を縫って訪ねてきたけど、顔を見せたくなかった。
「かえって…くれ…」
ようやく出た言葉は震えていた。
誰にも会いたくなかった。
静かな夜。物音一つしない。
涙で濡れた枕を放り出して外に出る。
中庭に見える墓標。
アッシュの…本当の『ルーク』の墓がある場所。
知っていた。朝、いつも母上が祈りをささげていることを。
本当の息子だから。俺は所詮レプリカだから。代わりにはなれないことを。
分かっていた。本当は俺は誰からも望まれていないことを。
だから、少しでもアッシュに近づきたくて死に物狂いで勉強した。頑張れば、俺を代わりとしてではなく、ルークとしてみてくれると思ったから。
結局、母上はますます、俺に『ルーク』を重ねるだけだった。俺を俺として見てくれなかった。父上も、ただの飾り物としてしか見ていない。
邸のメイドたちや街の人々は俺をレプリカとして見ている。俺は偽者。
あれだけ、英雄扱いしていたのは表面上だけだったらしい。
俺の前では本音を出さないだけ、誰も彼も裏ではそう思っている。きっとそうだ。
俺は誰にも望まれていない。此処にいてもいけない。
なら何処に俺の居場所はあるというのだろう。
命を賭して世界を救っても俺は存在を認めてもらえない。
これ以上俺に払えるものは何も無いというのに。
「なぁ…アッシュ…」
見ているようで見ていない、視点の定まらない眼でつぶやく。
「俺には重すぎたよ…『ルーク・フォン・ファブレ』は…俺は俺を殺して、ただお前であろうとした。お前に近づこうとした。それが還ってきた俺ができることだと思ったから」
誰も俺を見なくなった。『ルーク』としか見なくなった。皆が見ているのは思い出の中の『ルーク』。
「やっぱり望まれているのは…アッシュ、お前なんだ。この世界には俺の居場所はなかった。仮初めの陽だまりでしかなかった」
向けられた瞳は生まれたばかりの何も知らない俺に『ルーク』を…アッシュを重ねていた頃の瞳。七年間向けられ続けた眼。レプリカと差別する眼。結局、俺を俺として見てくれた時間は一年にも満たない。
墓標に向かって拳を振り上げる。何度も何度も。
「還って来るのは俺じゃなくてアッシュだったはずなのに…。どうして、どうしてお前は還ってこないんだ。お前がちゃんと還ってくれば、俺は…俺は…」
言おうとした言葉を何とか飲み込もうとする。その先は言ってはいけない。頭の中で警鐘が鳴り響く。たたきつけた拳は力を失って地へと自然落下する。ガリガリと爪が土を削る。痛い。割れてるかもしれない。それでも構わない。
「もう…限界なんだ。耐えるのも。気が狂いそうだ。俺にとっては全てが地獄に見える。」
護身用に持っていた剣を鞘から抜く。あの戦いの日々から真剣など握っていない。それでも手にある感触は懐かしいものだった。
「アッシュの傍だけが俺が安心できる場所なんだ。」
俺を見てくれたのはアッシュだけ。俺を認めてくれたのはアッシュだけ。僅かな時間だったけれど。それでも俺には十分だった。俺は満ち足りていた。
赤
紅
朱
それが最期に見た色。
全てを照らし出す朝日の中、中庭にある碑に寄り添うように白い服だけが残っていた。
世界が「聖なる焔の光」を失った日。それでも彼は…
〜after story〜
ルークの日記
幸福の場所 2007/01/20